◆牛痘發蒙
桑田和(立斎)著,[出版社不明],嘉永2年(1849)刊

  本書は桑田立斎(1811-1868)が牛痘法に対する誤解を正し、種痘の効果ついて解説した書である。 扉絵の挿画は、牛に乗った「保赤牛痘菩薩」が、疱瘡の悪魔を踏みしめ、幼児に救いの手をさしのべる様子を描いている。
牛痘法は、嘉永2年(1849) 蘭館医オットー・モーニッケ(Otto G. J.Mohnike 1814-1887)が完全な牛痘苗を輸入して 実際に成功したことにより、各地に除痘館がつくられ急速に普及した。
桑田立斎は、江戸で小児科医院を開業、10万人に種痘を行おうと悲願し、地域の子供たちへの種痘の啓蒙に専念した。 安政4年(1857)には、幕命により天然痘が流行している蝦夷地に渡り、函館から国後島まで6,400名余りのアイヌ人に種痘を実施した。 立斎は、7万余人の接種を達成し58歳で生涯をとじたが、最期は種痘針を握ったまま瞑目したといわれている。


◆魯西亞牛痘全書 上下巻
利光仙庵校鐫;馬場貞由鐸,須原屋伊八,安政2年(1855)刊 <嘉永3年(1850)刊>

  オットー・モーニッケ以前にも、ロシア経由の牛痘法が日本に伝来している。 千島・択捉島の番人小頭であった中川五郎治(1768-1848)は、文化4(1807)年ロシアに拉致され、 拘留中に種痘法を学び、松前に帰国の際に牛痘接種法を記した書物を持ち帰った。 その後文政7年(1824)に松前で痘瘡が流行した時に、自ら牛痘苗をつくって人々に種痘を施し効果をおさめたといわれる。
長崎の通詞 馬場左十郎(貞由)は、文化10(1813)年、抑留ロシア人船長ゴローニン(Gollownin)の取り調べのために松前に来ていたが、 中川の持ち帰った種痘書を見てゴローニンからロシア語を学び、これを翻訳し、文政3(1820)年 『遁花秘録』としてまとめた。 痘瘡のことを中国では天花といったので、これからのがれるという意味である。『遁花秘録』は、わが国で最初の牛痘に関する書物である。 その30年後の嘉永3(1850)年、三河の利光仙庵が『魯西亞牛痘全書』として刊行した。


◆種痘活人十全辯
梅浦脩介誌,来蘓軒,嘉永4年(1851)刊
<本間玄調誌,弘化3年(1846)>

  本書は、江戸後期の医師 本間玄調(棗軒) 1804-1872)が、水戸地方の種痘の指導普及のために著し配布した小冊子である。 同著『内科秘録』14巻(1867)にその詳細を載せている。
玄調は、杉田立卿・華岡青洲・シーボルトなどに師事し漢洋折衷の学識と医術を修め、水戸藩主 徳川斉昭の侍医に命じられ、 天保14(1843)年、水戸弘道館医学館教授となり、講義、治療、著述に活躍した。
斉昭の命で種痘接種の普及に努めたが、接種に対する恐怖心からなかなか進まなかった。 そこで玄調と斉昭は我が子に接種をし、「種痘を施せば百発百中にてひとつの失策もなく防ぐことができる」と説いた。


◆展示絵画 『エドワード・ジェンナー種痘の像』
桑原芸州 画(1972年)
寄贈 三宅清海氏(圭陵会員 医専2期昭和8年卒)
内丸キャンパス図書館新築記念(昭和47年)


  参考文献
『牛痘の原因および作用に関する研究 解説・翻訳』エドワード・ジェンナー[著], 梅田敏郎解説・訳,講談社,1983 (WC585/J36)
『或る蘭方医の生涯』桑田忠親著,中央公論社,1982(289/Ku98)
茨城県立歴史館 http://www.rekishikan.museum.ibk.ed.jp/index.htm